「法と宗教と人間と」(読み物)

―人間の意識は死ぬとどうなるのか?
我々は一体、どこから来て、そして、どこへ行くのか?

神話はその疑問の答えを昔の人が想像で形にしたもの。

それを利用して民衆をコントロールする技術の一つが
”宗教”である(ここで一気に俗っぽくなる)。

その技術を利用した宗教家が人心を掌握して民衆を操り
己の欲望を満たす道具としてきた。

本当の聖人はただひたすらに他の者を助け、己を律して
生きたごく少数の者のみであろう。

力と法(ルール)で集団をコントロールした歴史上の
権力者達と基本は何も変わらない。

―法律というルール。
―戒律というルール。

説得力と拘束力があればどちらでも良い。
リーダーが民衆をコントロールする技術でしかない。

皆が思う、自分の死後に、ただ消えてなくなってしまう
事への恐怖心。

―どうしても自分が存在する理由が欲しい。

―死後の世界(天国)があってほしい。

―生まれ変わり(人生のやり直し)があってほしい。

全てが願望でしかない。

死後の世界が有っても、無くても、今を生きる自分には
影響はほとんど何もない。
あるとすれば精神の安寧が得られるかどうかだろう。

人の道を外れた事をしてはいけない。
単純に悪いことをしてはいけない。

多くの人間が共存する社会にはルールが必要である。

みんながルールを無視して好き勝手なことをしだしたら
文明はあっという間に崩壊する。

人々をそのルールに従わせるには何らかの手段が必要と
なる。

法律を破れば罰せられる。

それは人が罰するのか、あるいは神が罰するのか。

それを考えると宗教よりも人が人を裁く、法による罪と罰
は現実的かつ実用的な方法となる。

現代を生きる我々もこの法律で社会秩序を維持し、守りな
がら共存している。

唯一の救いは天国が無ければ、地獄もあり得ない筈なので
死んだ後にノコギリで体を「ギコギコ」と切られたりして
永遠の苦痛を味わう事もない。

―ただ無になる。

喜びもないが、この辛い苦しみからも解放される。

もし死後に、自分の意識があり続けた場合、初めは良いが
その内すぐに死ぬほど退屈になるだろう。
と言ってもすでに死んでいるのでどうにもならない。

死後に人間の意識がどうなるのかは誰にもわからない。
たとえ1000年の時が経っても真実が明らかになる事はない
だろう。

ただ、現実の社会において、人類が誕生してから現在まで
の間に死後の人間の意識とコンタクトが取れたという公な
事実はない。

それがすべてである。

生きる事に意味がある。

一度しかない人生。

その終わりの日が来るまで、辛くても、楽しくても、この
現世を肌に感じながら、生きていく事にこそ意味がある。

生きる事は辛い事。

でも、苦しむのも、喜ぶのも、今この瞬間はただの一度しか
訪れない。

ルールを守って、恥ずかしくない生き方さえしていれば、後
は好きに生きていいと人類の長い歴史がそう言ってくれてい
るような気がする。



著者:naya
作成日:令和6年7月22日

※7月23日 一部記事を修正しました。

2024/7/22